世界法の日(69回終戦記念日の翌月)


H26年9月世界法の日 に(69回 終戦記念日の翌月)
*西南の役と日露戦役*
日本最後の内乱(1877年=明治10年〕、西南の役では、西郷軍と政府軍は激戦を
交え特に熊本、田原坂の戦い(田原坂資料館)は 壮烈を極めたものとなった。 この時、寺内 正毅陸軍士官、右手負傷、後の第18代内閣総理大臣である。私が子供のころでも、
野山には、鉛のタマを沢山見つけることが出来た。この時,政府軍の乃木少佐〔連隊長心得〕は連隊旗を西郷軍に奪われ、自責の念から
自刃(児玉 源太郎=熊本城で籠城戦、後の総参謀長 に止められた由)を試みたと言われる。
このような中で、権力の空間も生じた。地元民、約1万人が集い、約50日間、臨時自治政府が山鹿(灯篭祭りで知られる。景行天皇を導いた松明とも。私も子供の頃見学)に出現したと伝えられる。対比すれば満州国の宣言を想起させる。なお、清浦奎吾(肥後、鹿本郡来民村生れ。広瀬淡窓・咸宜園に学ぶ)第23代内閣総理大臣は、初の熊本出身であったが、大正デモクラシィー高揚の時世、5ヵ月余にして総辞職。
さて、乃木希典陸軍大将は、田原坂に幾重層倍する二〇三高地で、かろうじて勝利。

乃木将軍は、勝っても、露国の将軍の武人の立場も極めて尊重したと伝えられる。

大正元年9月、明治天皇大葬の夜に、ご夫婦で殉死されたのは、その忠誠はもとより、二人の御子息を含む幾万の犠牲の将兵と西南の役の
連隊旗喪失のことを併せ、殉じたと言われる。また、この時代に生まれ合わせ、共に闘わざるを得なかった相手兵への思いも交錯した
のではなかろうか。
なお、西南戦争の中では、敵味方の区別なく救助するという日本赤十字社の礎「博愛社」の誕生があった。やがて、西郷軍と政府軍も等しく
日本国民となった。

一方、大日本帝国海軍は、捨て身の戦法、敵前大回頭により、世界に聞こえたバルチック艦隊(ヨーロッパから大回航、ロジェストヴェンスキー提督)
に勝利した。東郷平八郎提督である。
戦を前に、通信網の重要性から、児玉源太郎(総参謀長)は 海底ケーブルの整備活用をベースにしていた。が、陸上電信所が必要であった。
この時、すでに、無線電信機は、マルコーニ(イタリア、ノーベル物理学賞)が発明していた。時に、日本独自の艦船用、三六式無線電信機の
研究採用を繰り返し上申、採用(1903年)させた秋山真之参謀の尽力には大きいものがあった。
木村駿吉海軍教授(帝大理科大卒、大学院、特許弁理士)、同スタッフが寝食を忘れるほどの研究下、三六式無線電信機が完成したばかり。
明治の世とはいえ、この戦での勝利は、世界的にも大きな影響を及ぼした。

さて、東郷提督(後、元帥)の長男が熊本の済々黌(旧制中学)に入学された。
時の、井芹経平黌長(東京高師卒)は、この勝利を
祝う行事(東京湾での大観兵式)に、東郷家のご長男の東郷 彪を帰宅・出席させるようにとの要請を受けたが、黌長は頑として断ったと伝わる。
「生徒の本分は学業にある」と。但し、熊本での「連合祝賀行列」には行進の先頭に立たされたと聞く。そして、長男には「東京高農」を勧め、
後に、宮内省に入り菊作りの名人(貴族院侯爵議員)となったと聞く。
また黌長は、徳育、知育、体育を掲げ、特に、剣道部には、「驕りが出るようなら、対抗試合で優勝してはならない」とも。

当時本黌は陸士、海兵にたくさん進学していた。私が生徒のころの話にも、防衛大学合格が、日本最多の時もあったと聞いた。
むろん、文科に進んだ人も多く、今はなき細川隆元・衆議院議員(評論家、:井芹黌長時の生徒)。偶々、同窓会への出席依頼の宛て名書きの担当が
私に廻ってきたのだが、出席されることはなかった。旅立たれたのは、間もなくであった。
文人 夏目金之助〔漱石〕も旧五高(後、熊本大学法文学部)の教授時代、隣地の済々黌でも英語を教えた由。
時代は下り、奇しくも、先の鳩山連立内閣時の
赤星慶治海幕長は、本黌の同窓生であった。防衛大学長は五百旗頭真博士、東日本大震災復興構想会議議長、現熊本県立大学理事長。
なお、私の祖父の1人も日露戦役に出征した。

*物理的な現象・心理的な面からの考察*

次に、太平洋戦争等に関しての様々な出来事を、先人、先輩等の足跡に学びながら、善悪を超えて考察したい。
完全無欠な人が、まずいないように、人の世は矛盾を抱えながらも、地球は絶えることなく、天の軌道を営々と歩み続けてきた。
太平洋戦争は、なぜ引きとめることはできなかったのか。なぜ大勢の犠牲者を出す前に、戦争終結は出来なかったのか、ここでは、これらを
物理的な現象・心理的な側面からも捉えてみた。
まず第1には、自らを絶対視し、一歩も引かないという交渉姿勢がある。外交は物体同士ではなく話し合いであるから、双方が冷静になれば、解決への道はあったとも思われるが、それは歴史の中に生きなかった。
現に、帝国海軍ハワイ真珠湾到着と、米国ルーズベルト大統領からの昭和天皇と話し合いたいとの親電が、ほぼ同時に着信していたといわれる。
孫子の兵法ならずとも「相手を知り、自己をも知るならば、百戦戦うも 危うからず」は、みな承知だと思われたのだが。

太平洋戦争では、主観的に、直接目に見えるものが、主とされ、直接には、目には見えないが、客観的な存在、電波、人の心等への配慮が欠けていたのではないかということである。

まず、夜間等でもわかるレーダーへの手遅れ、暗号文も解読され、大本営の発表も、しだいに事実から遠ざかっていった。軍の情報収集力自体の
低下も招来していたのではないだろうか。
そして、時間の経過と共に急激に変化していく、自国のあらゆる面での疲弊、
他国の農工業生産力、技術の急激な向上等の時間軸を見落としていた。人間も軍と一体化することで、多様に変化し、物理的な法則に支配されたといえる。

統帥権に裏打ちされた軍の圧力は、無言のうちにも、閉鎖的社会に水圧の如くに及んだものと、思われる。パスカル(仏)の原理を応用した
水圧機のように。戦争は上下左右を問わず、結果 すべてに多くの苦しみを与えたといえよう。
また、物体の性質、即ち動いているものは、どこまでも、動き続けようとして、どうにも止まらなく作用する慣性の法則がある。人間の落ち着いた心を離なれ、物体化したものは、
そのまま止まらなくなる性質があり、開戦時も終戦時もそうであった。
ブレーキをかけても、
すぐには車は止まらないのは、御承知のとおりである。
陛下の玉音放送の前夜、なお、戦争続行を叫び、終戦の放送を阻止しようとして、師団長他が、犠牲になられたのは、周知のことである。
宮城内は反乱軍に占拠されたが、偶然、、侍従武官室からの海軍省への直通電話1本が切断されず残っており、瀬戸際でク―デタ―防止。
更には、抗戦継続の第302航空隊の空中戦。
玉音放送後も、止むにやまれず、第五航空艦隊は彗星艦爆11機を率いて沖縄方面に特攻出撃をした。この時点では、大海令47号で、沖縄方面への作戦は停止されていなかった由。物体化した軍の統制は内側からも困難を極めたのである。

*八木・宇田アンテナ*
目に見えない客観視というのは、「八木・宇田アンテナ」がそれを物語る。八木秀次博士は、アンテナの発明で、結果 戦後、世界の家々の屋根に
TV放送映像を可能ならしめた人として知られる。
1925年12月、東北帝大(八木秀次工学部長)で、宇田新太郎講師(後 教授、工学博士)と共に、弱電(電気信号等)の研究・開発を推進、
八木アンテナの基礎理論を完成、設計し、 翌年には特許化していた。これらは、帝国日本では無視されたが、この八木・宇田アンテナは、米国で、視界不良(夜間、悪天候)時にも航空機が安全に着陸できるように活用されていたと言われる。
情報技術への認識の差と生産力の差は、時間と共に、敗戦につながる大きな要因となった。昭和16年12月8日の南雲中将率いる海軍航空隊・
真珠湾奇襲攻撃成功も、ハワイ・オアフ島の北に設置されたレーダーに約200km北方地点で、すでに捉えられていたと後に語られている。
ただ、味方機と誤解したので、迎撃活動は、出来なかった由。
私が、八木アンテナの言葉を初めて知ったのは、大戦末期特攻基地にいた父からであった。
昭和17年2月シンガポール戦の後、帝国日本の技術将校が
英国レーダー技師のノートを見つけ、文書にある「Yagi」の文言を捕虜の技術者に尋ねた時、八木を日本人だと知らず信じられなかったというのは有名の由。

帝国日本がレーダーの重要性に気付き、改良開発の研究に乗り出すのは、東京市~神戸市等の6大都市が空爆され、犠牲者87名等に及んだ
昭和17年4月18日の東京初空襲(ドーリットル中佐率いるB25爆撃機16機が米空母から発進し、中国大陸へ飛行)のころからといわれる。
この時、すでに軍事大国日本は、自らの軍事力を過信していたのではないか。軍事力のみでは国は守れないことを知る機会でもあった。統帥権下といえども、内閣でも少なくはなかった
平和外交に徹しきれなかったことが、後に、約310万人以上の犠牲者を出した。
昭和17年6月5日の大日本帝国、主力空母4隻等を失う
ミッドウエ―海戦(米国は八木アンテナを駆使応用と戦後に伝わる)からは後退の一途をたどることになる。敗戦の前年、昭和19年、海軍の推薦を受け、
内閣技術院総裁に就任した八木博士は、大阪帝大等教授時代、学生には心眼で見よと力説、総裁時の終戦直前の昭和20年の帝国議会衆議院予算委員会での
三木武夫委員(戦後総理)に対する答弁で、「・・・神風特攻隊の出動・・・は慙愧に堪えない所・・・」と述べ、(肉眼による)特攻作戦になったことを
全く申し訳ないと述べた。この末期の予算委員会は出席者の涙を誘ったと言われる。
軍歴「陸軍工兵軍曹」。
戦後、民主社会主義連盟会長、参議院議員、武蔵工業大学(現、東京都市大学)学長等を歴任。
文化勲章、勲一等旭日大綬章

*兵の教育と閉鎖的社会*

以下の例は、兵に対する上官等の姿勢である。
東京天文台長の学者宅での書生をし、東京物理学校の夜間で学びながら、海軍兵学校(旧一高と並び難関)に合格、卒業後、舞鶴の海兵団の分隊長
(昭和9年12月)を任ぜられた高木惣吉 海軍中尉(後、海軍大学教頭、海軍省教育局長)、自身の体験談(要旨)である。
1年間の分隊長時代、一切の、教員による暴力制裁を禁じたが、朝になり、練兵場に並んだ新兵の顔が、シャドー化粧や、お多福かぜに
かかったような顔が混じっていた。即ち、夜に暴力を受けていたのである。そこで、準士官や教員等を集め、腕力による指導を厳禁した。
「他人の子を預かって、もし鼓膜が破れたり、歯を折ったりしたら、その責任は分隊長になる。君たちは自分が昔、殴られた時うれしかったか、反省してみるがいい。
海軍法規では、小銃1丁壊しても、難しい問題になるが、小銃と小銃を扱う人間とどっちが大切か。暴力指導しかできない教員は手を挙げろ、
即刻代わりを探して交替させる」と厳命したという。

・次の例は、軍隊の中での私的制裁により、瀕死の重傷を経て九死に一生を得た慶大卒の広瀬謙次郎氏(生還後、日中友好運動に尽力)の身に起きた出来事である。軍律厳しい中であることは、わかるが、閉鎖的社会の断面が語られている。昭和18年5月頃、広瀬氏の属する連隊が、中国蕪湖に駐屯していた時のこと、(以下要旨)
広瀬氏は、甲兵長から連日連夜、青竹で暴行を受け、耳からは大量の内出血で、耳の骨まで変形したという。(同僚の早大卒の初年兵はその制裁に落命)
病気も併発、42度以上の高熱にうなされ、野戦病院で、瀕死の状態となった。
そのとき、枕もとに、白衣の神らしき者の姿をみた。
神は「遠慮なく己の信ずる道を行うが良い、危うくなれば神が命を助ける」と告げ消えられた。
野戦病院に入院中故、後で知るのだが、部隊で亡くなられた方の遺体を荼毘にふすことを、部隊長が、本人の意向もあり、結果 甲兵長に命じたところ、火葬の前に点検したはずの
手りゅう弾四個が、ポケットに残っていたらしく点火と共に、大爆発。その際に負傷の兵も、皆、氏のいじめに加担した者ばかりだったという。
広瀬氏は、病院を退院後、亡き甲兵長にお線香をあげた。が、その直後から、別の乙兵長が形相を変えて、氏をなじり、狂暴を極め、毎晩の足蹴り暴行。
足は大根のように膨れ上がり、訓練にも堪えられなくなり、もう死んだ方がましと。その朝のこと、突如、蕪湖上空に、初の米空軍機が現れ、何と、その乙兵長に直撃弾が命中してしまった。
亡き二人の(甲乙)兵長は、氏に対して、「貴様は初年兵の分際で、日中戦争は間違っている等と公言しているそうだが、この非国民、売国奴」と毎晩のように暴行を続けていたという。戦争さえなければ、両兵長も良き父であり、良き夫であったろう。

*米英戦の回避と東京裁判*

話は変わるが、高木惣吉海軍大佐が、旧肥後16代藩主 細川護立侯、出席での会合で挨拶すると、武藤章陸軍少将(済々黌、陸士、陸大卒)が
おられたが、「なあんだ、君も熊本だったのか」と大声で答えられたとか。
武藤章 軍務局長(後、陸軍中将)は、開戦を含む帝国国策遂行要領の白紙還元を
土台に、対米英戦の回避に努力し、開戦後も早期の講和を進言したと言われる。
敗戦後、武藤中将は、東條英機元総理・陸軍大将から「君を巻き添えにして済まなかった」と告げられたという。
また、後に新安保条約への改定(1960年安保闘争)でも知られる、岸信介元総理は、過去、東條内閣の商工大臣であったが、開戦後、東條総理に、
即時停戦講和を求めたといわれる。
東京裁判で、不起訴。
昭和23年12月、間もなく、クリスマスの救いの鐘の音が聞こえようとする中へ、満州事変(1931年9月)から太平洋戦争
(1941年、ハワイ真珠湾奇襲攻撃と英国領マレー半島奇襲上陸:米英に宣戦布告)に至る、国際的な責任を背負って共に巣鴨から旅立たれた。

*終戦に至る経緯等*

日本は、明治時代までは、東アジアの、明治以降は欧米の影響を強く受けてきた。
日清戦争の平和交渉にも陰ながら尽力したといわれるエドウィン・ダン(北海道の酪農の礎、後、駐日米国公使館)、更に、日露戦争の講和では、
米国 〔セオドア・ルーズベルト大統領〕の停戦仲介(ノーベル平和賞)のもとで、何とか戦争終結に漕ぎつけることが出来た。
が、先の大戦では、仲介を頼みたくとも、その米国〔フランクリン・ルーズベルト(終戦前の4月に急逝)大統領〕と交戦しているのだから、どうにもならなかったのである。

1942年(昭和17年)6月の主力空母4隻等とベテラン搭乗員・艦載機とを失ったミッドウエ―海戦を境に、大日本帝国は、敗退の一途を余儀なくされた。
以後、米国の航空機、潜水艦性能は時がたつにつれて飛躍的に改善。

1943年(昭和18年)10月21 学徒出陣(文科系)明治神宮外苑競技場にて壮行会。
1943年(昭和18年)11月には米国大統領、英国首相、中国政府総統がエジプトのカイロで日本の無条件降伏を目指すと宣言(カイロ宣言)。
1944(昭和19年)年7月、この世の地獄、死の谷と呼ばれた戦場、サイパン島では、日本軍の勇戦敢闘も及ばず、暗号電報等も解読されており、
南雲忠一(真珠湾攻撃に成功)司令長官を含む高級指揮官も自決され、帝国日本軍は全滅。サイパン島は米軍機の帝国日本 本土空襲の基地化。東條内閣総辞職。

帝国海軍の大艦巨砲主義は、物理の法則 力は質量×加速度そのものを示していた。
海軍が終戦へ向けて極秘に動き始めたのが1944年(昭和19年)8月末のこと。高木海軍省教育局長は、井上成美 海軍次官から、霞が関に呼ばれ、
「事態は最悪だ、戦局の後始末が大臣の意向」と、終戦への密令を受けた。本土決戦論の最中、閣僚といえども、終戦を公言することさえ
許されなかった時代である。
1945年(昭和20年)7月には「米英支(蘇)」ポツダム(ベルリン郊外)宣言が出された。
第42代、鈴木貫太郎総理(旧前橋中学、攻玉社、海兵、海大卒)は、江戸時代(約1週間後に明治と改元)生まれ、日清戦争から参加、
日露の日本海海戦では勝利を導き、関東大震災の翌年の連合艦隊司令長官、昭和11年の2・26事件では瀕死の重傷を負うも、奇跡的に生還。
太平洋戦争での敗北、終結までを体験。その一代は近代日本の歴史そのものであったといえる。
そして、喜寿を超えての大命降下、戦争終結に向けて、全精力を傾注した。
ソ連を仲介とする和平案は実現することはなかった。
1945年(昭和20年)、7月末を戦争終結とする、非公式ながら米国機関からの最終案、和平の手が伸びてきていたのだが、信じられず、
実現することはなかった。
この米国とのスイスでの和平が出来ていれば、原爆投下・ソ連の参戦での犠牲者・悲劇は出さなくても済んだだろう。
日露戦の勝利も、真珠湾奇襲攻撃の成功も逆に作用したかのごとくであった。
物理の法則 作用・反作用の法則が、時間を介しながら働いたものといえよう。
1945年(昭和20年)8月15日、終戦の玉音放送の直後、大任を果たした鈴木内閣総辞職。

*敗戦の徳*
戦後、元、逓信院総裁、東海大学創立者の松前重義博士(旧熊本中学=第二済々黌の後身、熊本高等工業=後の熊本大学工学部、東北帝大卒)は、
無装荷ケーブル通信方式の発明で世界の通信技術に貢献した。
戦後は「敗戦興国」を掲げた。敗戦の徳は、今日の如く、老若男女、上下左右を問わず、自由な言論の舞台が出現したことである。
この69年以上、象徴天皇制のもと、世界に平和の光を灯し続けられることである。
終戦時、米国のみならず、連合国10ヵ国を超える目が
存在したことも、逆に、敗戦国日本にとって、幸いな面もあったといえる。
灰燼の中から出てきた日本国憲法下、男女平等が実現し、女性も自由に選挙に行けるし、立候補もでき、女性の権利が認められた。
9月3日の第2次安倍改造内閣にも、5名の女性閣僚と7人の女性副大臣・政務官も誕生した。内閣始まって以来といえる。敗戦までは原則、
女性(妻)は、財産管理権も無く契約も自由にできず、どんなに才媛でも、法的には行為無能力者で、準禁治産者扱いであった。
また、農地改革も行われた。私的所有権絶対の原則は大きく後退して、地主は、耕作者にプレセントに近い形で、土地を開放した。
土地の所有権の利用形態等には、地上権、賃借権、贈与、抵当権設定等、様々な活用の方法がある。憲法29条は財産権の不可侵をうたいながらも、
公共の福祉、公共のために、補償と共に制限を加えている。

ここで、仮定ではあるが、早期の大日本帝国勝利の講和であれば、犠牲者は、はるかに少なくて済んだものと思われる。
が、帝国憲法下にあり、自由な言論活動等は左右とも法律の認める範囲に限られていることだろう。女性の権利も然り。徴兵制も地主制度も
財閥も存続しているだろう。
戦後の自由と平和が果てしのない犠牲者の上にあるというのは、こういうことなのである。
今年の長崎、広島の平和祈念式典には、キャロライン・ケネデイ 駐日米国大使〔弁護士〕が御臨席されたこと、報道機関から一斉に伝えられた。
69回目の終戦記念日には、天皇皇后両陛下、安倍晋三内閣総理大臣他が御臨席。御遺族をお招きして、全国戦没者追悼式が日本武道館で挙行された。平成5年8月には、宮澤内閣、河野洋平内閣官房長官談話が、戦後50周年記念の平成7年8月15日には村山内閣総理大臣談話が出されて、今平和への祈りが中秋の満月に宿る。
明治神宮外苑の夜空にも、無数の星のきらめきが、無数の人間の幸福を願いながら、今日も天上をめぐりゆく。本日は「世界法の日」、地球世界の平和と災害防止と友愛を願う日。

参考文献等
・フリー百科事典 「ウィキペディア(wikipedia)」
・八木・宇田アンテナの数奇な歴史(HP)
・www.geocities.jp/hiroyuki0620785/yowa/yagi.htm
・エドウィン・ダン記念館/札幌市南区HP
・植木町田原坂資料館  熊本市HP
・地球[超転換]  広瀬謙次郎  徳間書店 刊
・済々黌同窓会報、多士東京
・政治主導と友愛の国(高木太著、元就出版社)の参考図書・文献等(P222~223)
に同じ。

H26年5月憲法記念日に(オバマ米国大統領ご訪日の翌月)

 
月*太陽*人間
日本では、飛鳥時代、602年に百済から来朝の僧 観勒(後、僧正)により暦法が
伝えられました。広域的規模での統一者が時を告げなければ、行政にしても、農耕、漁さえも、
万人の共同生活は成り立ちませんでした。それには、月と太陽に見習うしかありません。
ここでは、太陰暦、太陽暦、太陰太陽暦を簡潔に表現するために、(偏)微分可能な「暦関数」の
存在を仮定して、偏微分等の表現にあやかることにしました。偏微分とは、一方を固定し、
片方の独立変数だけで微分をすることです。共に動く場合は全微分となります。

1 太陰暦
太陰とは月のことであり、その満ち欠けの周期が基準で、イスラム暦に代表されます。
太陽の動きを、無関係と固定し、その暦関数を微分できるとすれば、その(偏)微分係数には月の動きを
特徴とする月暦接線ともいうべき変化度・方向性が出て来る。即ち月の変動で決まる太陰暦が導かれる。
月は常に動いているので、満月も瞬間的なものである。

1ヵ月を約29.5日として、1年は約354日である。

月の真の朔望月(月の満ち欠けの1周期)は、約29.53058日 ゆえ、
1ヵ月に0.03058日の誤差が生じる。
ゆえに、30年間に11日の閏年を設定して、整合してある。

月の満ち欠けに連動する潮の満ち引きは引力を介しての現象であり
、特に、海洋・漁業には重宝である。

さらに、月からは間接的ながら、海水の潮汐現象等が引き起こされ、
このエネルギーを生かす、潮汐発電、波力発電等も可能となっている。

自然の引力によるエネルギー源がここにも存在している。

2 太陽暦

日本は1873年1月1日を明治6年1月1日として、結果、太陽暦で
あるグレゴリオ暦を採用した。

月の動きは考慮せず、無関係で一定とみなし、偏微分できるとすれば、暦関数には
太陽の動きを特徴とする太陽暦接線ともいうべき変化度・方向性(微分係数)が出て来る。
即ち太陽の動きで決まる太陽暦が導かれる。
1太陽年(観測による太陽の運行)は約365.24219日である。
太陽も常に動いているので、南中高度(太陽が真南で最高度)も瞬間的なものである。

グレゴリオ暦年は、平均365.24250日である(400年間に97回の閏年を置き調整)。
それでも、わずかの差で暦(グレゴリオ)が、年間では約26秒=0.00031日、
先に進むことになる。人の1生を100年とすれば、その間の誤差は
約45分で収まる。日常生活にはまず大丈夫である。が1万年たてば、
3日以上の誤差を生じる。10万年経れば1ヵ月と、塵も積もれば大山となる。
地球の自転軸の傾きで季節の変化をもたらし、植物の生育を助ける太陽
に基づくこのグレゴリオ暦は特に、農耕に重宝である。

なお、織豊政権下、天正の少年遣欧使節は、本暦の制定(1582年)
者となるローマ教皇グレゴリウス13世に、ローマに達して(1585年)謁見している。
なお、約半日の誤差が出る西暦3242年頃までには、修正暦が出されるだろう。
英、米は18世紀、
日本(明治6年)、朝鮮は19世紀、中国、ソ連(当時)は20世紀とグレゴリオ暦はグローバル化していった。

今日、太陽(大自然の核融合+1億5千万kmの安全距離装置)からは、
太陽熱によるお風呂に始まり、太陽光発電装置も出現、大自然のエネルギー源があふれている。

3 太陰太陽暦
太陽の動き、月の動き、双方の影響を受けるものとして、暦関数を全微分可能とすれば、
その特徴には太陰太陽暦接平面とでもいうべき面的な変化度・方向性が生じる。暦関数は複合暦面を呈し
、まろやかな風情が出る。明治5年までの長きにわたり日本も太陰太陽暦であった。

ここに、メトン(ギリシアの古都アテナイの数学者にちなむ)周期の活用がある。
即ち、19太陽年(1年は約365.24219日)と
235朔望月(月の満ち欠けの1周期で約29.53058日)の等時性が日月を
再び会合させるのである。中国では章法である。

19年周期でほぼ同じ月相が見られるというわけである。

19年間に235-228=7回のうるう月をいれると、太陽年とのずれが解消できる。

太陽の季節感は、農耕を促進させ、月の満ち欠けは潮の満ち引きを示し、
漁の指針となった。共に優れて、人々の生活を豊かにした。

明治5年までは、日本も太陰太陽暦であった。

月と太陽の周期が出会う19年間でも、なお、微小な差(約0.08469日)
潜んでいる。
わずかこれだけでも1万年後には約1ヵ月半のずれとなる。
塵も積もれば山となる。

ところで、地球自体もエネルギーを有しており、温泉熱によるゆで卵にはじまり、地熱発電装置もある。
流水、雨水の循環作用による水力発電装置はおなじみなものである。
過去の堆積作用等で蓄積された石炭、石油、ガス等も存在する。
なお、台風の巨大エネルギーの長期蓄積はむろん、大雪の冷房、冷凍作用への長期蓄積への夢は
手つかずの中にある。

さて、日本は、9世紀半ばから唐の宣明暦を、貞享暦 制定までの800年間以上用いていた。

貞享暦は、天文・暦学者であった渋川晴海(後、江戸幕府天文方)による観測を加え、
日本と中国との経度差を活用した日本独自の和暦といえるもので、大和暦と呼ばれた。
太陰・太陽暦としては同じであった。

  
さて、ここでは、月(X)と太陽(Y)を主体とする独立変数を考えて、
これらの従属変数(Z)、即ち暦関数を捉えられたと仮定すると、
これはZ=f(X,Y)と表現される。即ち、XとYに対応してZの姿形が現れて来る。
ここに、太陽(Y)を無関係と固定し、
この暦関数を月の動き(X)について、微分(微細な分割)する。これで求まる(偏)微分係数は
∂Z/∂Xで、暦接線の微小な変化度・方向性を示すものとなる。

同様に、月(X)を無関係と固定し、太陽の動き(Y)について、微分する。
これで求まる偏微分係数∂Z/∂Yは、やはり、暦接線の微小な変化度・方向を指すものといえる。

月(X)と太陽(Y)が共に動く場合は、全微分すれば、X,Yの微小変化の合計が示され、
暦接平面(近似式)ともいうべき面の変化度・方向性が出て来る。
太陰太陽暦関数、 Z=f(X,Y)は、月と太陽の動きを併せ持ち調和のとれた世界をもたらしていたといえよう。

暦は万人共通の尺度を目指しており、幾何学の公理にも相当したものといえる。
天(太陽、月)の威光にあやかり、当時学者等の意見を聞きながらも、
法王、帝(いわば善なる天道の代理人)が定めたのが国家の公理・大典としての暦であった。
日本でも、暦の発行は終戦の年までは専売制であった。
許可制が解かれ、自由に発行可能となったのは翌年のことであった。

さて、
我々は、10万年後の国民・地球人に安心・安全な暦と地球環境を届ける先達者となっているだろうか。

なお、前提として、太陽も月も地球もその軌道には誤差はなく不変とみなした。
暦に関しては、天動説的な、地球を中心とする仮想的な天球を想定して、太陽の見かけ上の
通り道を黄道、月の通り道を白道と呼ぶ。

太陰太陽暦において、太陽の季節感を出し、これを補足してきたのが、いわゆる二十四節気といわれる表現である。

黄道(0~360度)を24分割(15度毎)したものである。

春分(黄経0度、3月)、立夏(黄経45度、5月)、夏至(黄経90度、6月)、大暑(黄経120度、7月)、立秋(黄経135度、8月)、秋分(黄経180度、9月)、寒露(黄経195度、10月)、立冬(黄経225度、11月)、冬至(黄経270度、12月)、大寒(黄経300度、1月)、立春(黄経315度、2月)等々《月は現太陽暦》である。

参考図書等(当時)

*「暦と占いの科学」=新潮選書

・永田久=東京教育大学理学部数学科卒。専攻は数学基礎論。法政大学教授。フェリス女学院大学、東海大学でも教鞭、

    (竹内均東大名誉教授、帯評付)

*「空と月と暦 天文学の身近な話題」 米山忠興(東洋大学教授)著

 丸善株式会社 刊

*旧歴の美学―生活とカレンダー 金田晋(美学・広島大学名誉教授)
  広大マスターズHP

*フリー百科事典 「ウィキペディア(wikipedia)」

*国立天文台天文情報センター暦計算室

H25年5月2日追記(皇太子殿下・同妃殿下オランダより帰国の前日に)

**惑星運動**

惑星に作用している力は、万有引力 f(r)=-GmM/r2

[m:惑星の質量 M:太陽の質量 G:万有引力定数 r:惑星と太陽間の距離]と、
いわれるものである。
地球(惑星)との関係で、力の中心となる太陽を不動な存在とみなして、
これを原点にとる。運動は2次元平面内で行われるものとする。
惑星の運動方程式を
求める際、表現が便利なので、極座標表示で示される。よく知られている、質量×加速度=力
が基本である。
デカルト座標との関係はx=rcosθであり、y=rsinθである。ここで、
時間tで微分すると速度が、さらに時間tで微分すると加速度が求まる。長い式は省略。

これらから得られる基本の運動方程式は、
Fr=m{d2r/dt2-r(dθ/dt)2}=-GmM/r2

Fθ=(m/r)×{d/dt[r2(dθ/dt)]}=0である。

F(太陽からの力)=Fr(動径方向の力)+Fθ(垂直な成分方向。角度θ方向の力)である。

軌道が楕円であること(ケプラーの第1法則)を明らかにするには、上記の連立微分運動方程式を解くことになる。

Fθはすぐに解け、2(dθ/dt)=h(定数)であり、これは、ケプラーの第2法則(面積速度一定)でもある。

r方向成分は、Fr=m(d2r/dt2)[動径方向の加速度]-mrω2[遠心力,ωは角速度]となる。

θ方向成分は、万有引力は中心力であり、角度θ方向のFθは0の特徴がある。

2(dθ/dt)=h(一定)の関係から
dθ/dt=h/r2となる。ここでは、時間tでの位置の決定ではなく、
軌道を求めるものである。

微分方程式を解くために、長きにわたる先人、先達の様々な工夫・変形等がなされている。

ここでrの逆数を新しい変数S=1/rと置き換える。すると、r=1/Sとなる。

さらに、dr2/dt2、dθ/dtをS,h等で表現して、
これらを、動径方向の運動方程式Frに代入する。すると、時間t、質量mは消去される。

そして、
(d2S/dθ2)+S=GM/h2が導ける。

つまり、惑星のある時刻の位置ではなく、惑星の軌道(rとθの関係)が得られるのである。

この線型微分方程式の解は、右辺を0と置いた斉次方程式の一般解と、
非斉次方程式の特解の和で求められる。

S=S(θ)についての微分方程式、右辺を0と置いた斉次方程式(d2S/dθ2)+S=0は単振動の方程式を呈し、
この式は
、-と+を交互に往復する関数によくあるもので、三角関数を想起させる。

さて、前述の(d2S/dθ2)+S=GM/h2を解く際、この解での一般解をS0、特殊解をS1とすると
解は
S=S0+S1とおける。

ここで、線型微分方程式の解を求めるにあたり、特性方程式といわれるものを活用する。

すると、S=Ae +Be ―iθとなる。

ここで、オイラーの公式(ベキ級数展開でも確認)を使うと、

S=(A+B)cosθ+i(A―B)sinθとなる。

一般解 S0=(A+B)cosθ+i(A―B)sinθ

これは、(d20/dθ2) +S0=0を満足する。

特解の一つは、すぐにS1=GM/h2

この、S1=GM/h2は、(d21/dθ2)+S1
=GM/h2を満足している。つまり、左辺の微分項は0で、左右が等しくなっている。
なお、h2/GM=ℓ(半直弦)とおく。

全体の一般解は、
S=S0+S1

S=(A+B)cosθ+i(A―B)sinθ+ℓ

dS/dθ=-(A+B)sinθ+i(A―B)cosθ

ここで、A,Bを初期条件から決める。
つまり、
近日点θ=0での近地点動径(r)は(一定)である。
これらから、
S=1/rとおいていたので、
元に戻して、1/r=e /ℓcosθ+1/ℓから、

r=ℓ/ (1+e cosθ)が導かれた。これは楕円の方程式を表している。

以上のように、極座標の式は、万有引力が作用する、惑星の軌道が
楕円になるというケプラーの第1法則を証明したのである。

ところで、上記のオイラーの公式  eix= cosx+isinxは、

レオンハルト・オイラー(1707年、スイス生まれの数学者)の業績にちなむもの
である。

遠望の雪の富士山は、左右の曲線を指数曲線に、中央火口をコサインカーブにも比喩
できる成層火山である。
オイラーは霊峰、富士山にもふさわしい。

この公式は虚数i,(i2=-1)を介することで、指数と三角関数を連結させた
公式である。

地上の出来事も、太陽系の出来事も、遠い昔から共通した理が存在することにあらためて、
畏敬の念を深くするものです。

365日の周期をもつ地球自体が振動体といえる。大地の地震も海の波も空の雷鳴も振動である。

人間の目は光の振動を七色の虹と捉え、耳は空気の振動を音声等に捉える。口は心の思いを

空気に振動で伝え会話ができる。分子も原子も振動が認められている。あらゆるものは振動し、
揺れながら、
共鳴したり、干渉したり、増幅したりする。一定の幅の揺れは当然ともいえる。
揺れの中に安定もある。

以上ですが、ここでは、簡単のため多くを省略しました。

参考:人生の定理(高木太著:碧天舎刊)

上記図書のP154~155の参考主要図書・文献一覧に同じ。

平成25年3月1日追記等

**名誉法王**
幾何学原論、ローマ法、聖書は、河の流れの如く世界を潤した。まさに今日の人類文化の
土台となった。このうねりの中、昨日をもって、第265代ローマ教皇
べネディクト16世《85歳》が名誉ある御退位をされたことが世界に報じられた。

** 神は愛なり **

平成24年12月31日追記等
**楕円に関する付属事項**
A、楕円(円錐曲線)はデカルト座標(直角座標)での、x**2/a**2+y**2/b**2=1
[以下 **は2乗の意]の表現が一般的に知られている。
楕円の焦点をF、F´とし、短軸半径(x=0、y=b)、
長軸半径(x=a、y=0)、楕円の定義から
r+r´=2a(2つの焦点からの距離の和が一定の点の軌跡)であった。
焦点間の距離は2cで、
a>c>0である。離心率e=c/aである。cは焦点距離で、ℓは半直弦(x=c、y=b**2/a)である。
1、楕円の極座標表示からデカルト座標表示への変換
焦点Fに原点を置いた極座標上では、r=ℓ/(1+ecosθ)が楕円表示の式。
なお、ℓ=b**2/aである。ℓは焦点Fから直上の軌道までの、動径の長さで半直弦と呼ぶ。eは離心率で、焦点距離c=aeであった。
x=rcosθ、y=rsinθ
r**2=x**2+y**2、これらの関係を活用する。

極座標とデカルト座標の楕円表現では、外観上は別物と判別されそうである。が、実は同じ内容のものである。人間の真夏の服装と真冬の姿では、一見別人を思わせるが、同じ人間である。夏服と冬服では効能が異なるようにである。
なお、ルネ・デカルト(仏、数学者)は直角座標とともに「我思う、ゆえに我あり」で知られた哲学者でもあった。

2、楕円のデカルト座標から極座標表示への変換
前述とは逆に、今度は直交座標から
極座標表示への変換をする。
楕円のxy座標上の方程式x**2/a**2+y**2/b**2=1は定義から周知である。
極座標(r、θ)での方程式はr=ℓ/(1+ecosθ)であることは、すでに先達により導かれているが、これに至る道程を示すのである。
楕円の中心Oを原点とする直交座標XY軸と、
焦点Fを原点とする直交座標をxy軸と想定する。極座標はr、θで表現される。
ここに、x=rcosθ、y=rsinθ  焦点距離c=aeである。半直弦ℓ=a(1-e**2)

ゆえに、X=x+c=rcosθ+ae となる。Y=y=rsinθとなる。

更に、逆回転の楕円も考慮して、距離rに関しての2次方程式を求める。これを解けば、極座標(r、θ)での方程式、r=ℓ/(1+ecosθ)が求められる。

3、エネルギー保存則の式から楕円軌道の式を導出
今、地球の表面から打ち上げた速度vで、質量mの物体がある。ここで、速度vが小さいと万有引力に引きもどされる。が、
速度vが大きいと、万有引力の影響により、速度は小さくなりつつも停まりはしない。万有引力の影響もゼロになり、再び帰らざる無限遠に到達したとすると、その時の速度は0以上である。
力学的エネルギー保存の法則から無限遠に到達する条件は、(運動エネルギー)+(位置エネルギー)、即ち、全力学的エネルギーが0以上である。

・地球は太陽の引力圏にあり、無限遠に達することは無く、楕円軌道を繰り返し周回している。
人工衛星は地球表面を円軌道で周回するが約7.9km/s(秒)の速度が必要である。
ロケットで地球の引力から離脱するには、無限遠での全力学的エネルギーが0以上になるために、
地上で最低でも約11.2km/sの速度の付与が必要である。
なお、無限の彼方へ行くには、地球の引力を離脱できても、太陽の引力があり、これを超えるには、
ロケットに地上で約16.7km/sの速度(公転速度との差を活用)を付与する必要がある。が、ここを離脱しても、
銀河の引力圏がある。さらに、銀河団の引力圏がある。

・無限遠における万有引力の位置エネルギーは0を基準としている。だからそれ以外の位置では位置エネルギー
はすべて負の値をとる。(運動エネルギー)+(位置エネルギー)、即ち全力学的エネルギーは一定に保存されるという、このエネルギー保存則から、変形と積分等により惑星のたどる楕円軌道の式(ケプラーの第1法則)が導かれるのである。

4、***無限遠と悟り***
小宇宙といわれる人間もまた、様々なエネルギーに満ちている。
性質は異なるが、地球表面に生きる人間も、活動のエネルギーを有しているといえる。ここでは、
人間の活動と人間存在の位置(身分)エネルギーとしてとらえてみた。人間の活動とは、
煩悩(悩み、苦しみ等)のエネルギーと、人間としての身分を有することで、抑制的に作用するエネルギーの和すべてが人の持つ力、全エネルギーといえる。
遠い昔より、悟りを得ようと精進し、その位置に到達した人は菩薩・ブッダと呼ばれた。
その悟り、位置とは、「涅槃=ねはん」に至った人であり、煩悩の火の消えた状態といえよう。
ここでの全エネルギーは「無限遠=理想境」とイメージされる状態、すなわち、活動エネルギーは動きを止め静まり、位置エネルギーも無我となり、「空」の場が出現したといえよう。
逆に煩悩の波間に漂う者は人間世界での活動が盛んであるともいえる。悟りの位置、身分からすれば、
負のエネルギーを多く持つともいえる。が、煩悩即菩提としての悟り、即ち、空の世界に通じる場にも
存在し、喜びも悲しみも共有しながらそれらを、なお乗り越えて生きていくのが我々人間世界といえそうである。

なお、以上に関する楕円の相互証明書とエネルギーからの軌道方程式の証明書については、学生の場合半額
又は、事情により無料可。

5、参考図書
高木太著「人生の定理」=碧天舎刊

「人生の定理」正誤表

・P79,135 (√の延長)に追加
・P91の18行目
誤 11.08
正  1.02
・P108 1行目
誤 {1/(n+1)}Xのn乗 +1
正 {1/(n+1)}Xの(n+1)乗

上記所蔵の図書館

札幌市中央図書館
東北大学付属図書館、首都大学東京図書館、立命館大学図書館、
広島大学図書館西図書館、 国立 沖縄高専図書館

同志社大学図書館(女子大京田辺図書館) 近畿大学工学部図書館

大阪工業大学図書館

なお、表紙のイラストは画家 菊地幸樹氏(東京芸大卒:NHK TV出演歴)

以下はH24.12.31以前 の記載 (但し一部変更)

***惑星運動の土台、楕円の極座標表示の求め方等***
(ティコ・ブラ―エ、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンへの道)
(1)今日の文明の基礎
・約20年以上にわたるブラ―エ(デンマーク:1546年生)の生涯の努力・観測記録を水泡に帰することなく、ケプラー(ドイツ)は、これを土台に、長きにわたる計算の末に惑星(火星)が楕円軌道を描いて太陽の周りをまわっていることを帰納的に導きました(1609年)
後に、古典力学の完成者と目されるニュートン(英国)は、これらを当時の数学、幾何学(定義、公理、定理を用いた証明)で、著書、古典的名著と今にいわれる「プリンキピア=自然哲学の数学的原理」を発表(彗星でおなじみのハレーが出版費支援、
1686年刊)しました。 この後のニュートンの力学理論からも、約70年前のケプラーの法則が正しいことが証明されました。
ニュートン、ケプラー、ブラ―エは時空を超えてお互いを生かしたのです。そして、現代の宇宙船、通信衛星の土台となったのです。
光速度船はいまだ無く、曲率0のユークリッド空間を想定したニュートン力学で間に合っているのです。
{なお、半導体技術、ナノテクノロジーの世界(10億分の1m)、真空の世界等については、量子力学が担います}。
以下では、空気摩擦、抵抗のない真空の空間を太陽を1つの焦点とする惑星がたどる楕円軌道を、述べます。
・地球内に居ると、地球が動いていることが、なかなか、1633年のガリレオ地動説裁判(1992年ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世により名誉回復)でみられたように、我々の住む土地や家や人間が
毎秒465m(緯度で差)で動いて自転していること、毎秒29.78km(太陽からの遠近で差)の猛スピードで公転していることの直観での理解が難しいからです。日の出、日没の言葉からも地球は不動との感じを受けてしまうのです。

昔、数学を教えて頂いた学校の先生は、時に人生の夢や悩みをも語られ、広い教えであったと懐かしく思いだされます。後に、生徒の中には、学者(博士等)としての道を歩んだ級友もありました。なお、先生(故人)は「被爆者手帳」を御持ちであったかも知れないと聞きました。
地球が動く船で人類に乗客の思いがあれば、どうして、核爆発等が起こせましょうか。万一、離心率にも影響し、放物線軌道に入れば地球は遠くに飛び去るかもしれません。地球のたどる楕円軌道に関わるケプラーの3大法則等を想起することが、人類の安全にも寄与するとの思いから、意識を深めるためにも、コトバとしての数式を活用しました。
「世界の調和:1619年刊」の著者ケプラーは3大法則を通して天空に、世界調和の足がかりを築いた人といえましょう。地上でも天上でも、その相互関係に数式上も矛盾が無いことを知る時、地球の精妙な動的な姿に驚くものです。
なお、ここでは、太陽系に限定し、太陽は不動の位置・中心と定めました。但し、絶対静止はなく、厳密には太陽も自転し、
太陽系を含む銀河系も公転。

・ところで、私は少年時代に旧制五高講堂での湯川秀樹博士の講演(日本人初ノーベル賞受賞:現代科学と人間)を聞く機会に出会えましたが、そのなかで、人間が科学の発達に追いついていないことを憂えておられたように思う。講堂(今は無い)の後ろの方は人の山であった。拡声器は外側の芝生にも響いていた。
湯川秀樹氏(当時)は、1955年ラッセル・アインシュタイン宣言に署名し、世界の平和的紛争解決と核廃絶を宣言しました。
アインシュタインの悔恨と創造主への祈りもこめられたものといえましょう。
日本の元総理、鳩山由紀夫博士の*友愛平和*も上記宣言を裏打ちしたといえましょう。

*バートランド・ラッセル伯爵(英国、哲学者、数学者)–アルベルト・アインシュタイン博士(米国、ドイツ生 理論物理学者)*  共にノーベル賞受賞。平和運動を展開*

*鳩山由紀夫博士は第93代、日本国 内閣総理大臣(東京大学工学部応用物理計数工学科卒
後 スタンフォード大学大学院博士課程修了)*

(2)楕円の解析(証明、解説等を含む)
1)楕円の定義
・楕円には2つの焦点(F,F‘)があり、焦点間の距離を2c、長軸半径a,短軸半径bと表すと、
FQ+F‘Q=r+r’=2a(a>c>0)である。Qは惑星の位置である。Qの軌跡が楕円となる。
極座標は、焦点の1つを原点(F)とする。(なお、デカルト座標では楕円の中心を座標の原点(O)と定める。)以下、原点からの距離r(r)と角によりQの位置を表示する極座標(r、θ)で示すものとします。この部分では、微積分は活用することなく、
定義と三角関数と式の変形で楕円が出現します。なお、楕円の式は、ここに即、数学で導くことができますが、惑星が楕円軌道をたどっていることは、ブラ―エの25年以上の精緻な肉眼観測があったればこそ可能となったのである。後継ヨハネス・ケプラーの努力が、今までの惑星円軌道説を楕円の軌道へと転回せしめたのであった。楕円の焦点が一致すれば、円となる、その差は小にして大であった。

楕円の式はどのような形をしているかを一般的に知られた方法で導く。(以下、2乗は「**2」で表示)
2)離心率eについて
ここで、離心率eは長軸半径aに較べて焦点距離cがどの程度離れ、扁平かを示す。つまりe=c/aである。
つまり、c=aeでもある。
3)三角関数の余弦定理の想起について
・余弦定理を想起するには、直角三角形でのピタゴラスの定理から直角を挟む辺をb , c斜辺をaとすると
a**2=b**2+c**2(3平方の定理)であった。直角、即ちcos90°は0なので a**2=b**2+c**2―2bccos90°としても同じである。直角を一般化θとすれば、余弦定理を想起出来る。即ち、(直)角を挟む両辺の
二乗の和から、両辺の積の2倍とcosθの積を求めて得られたものを減算したものが挟角の対辺の2乗を示している。
即ち、a**2=b**2+c**2―2bccosθが三角関数の余弦定理である。
楕円の式はどのような形をしているかを導く。
なお、QがFとF‘の中央である原点Oからbの距離(直角座標のy軸上)に位置するとき、直角三角形FOQ、3平方の定理から、a**2ーc**2=b**2である。また、c=aeで、OF+OF‘=FF’=2cであった。

4)三角形QFF’の想定
さて、焦点のFを原点に考える、平面極座標をとり、惑星QがF,F‘を結ぶ直線とθを為す角度にあり、
FQ=r、F’Q=r‘とする。三角形QFF’につき考察する。定義より、r‘+r=2a ・・・(1)
からrを右辺に移項すると、r‘=2aーr・・・(2)
前述の三角関数の余弦定理から、
r‘**2=r**2+(FF’)**2―2r(FF’)cos(π―θ)
、 上式に公式「cos(π―θ)=―cosθ」及び(2)を活用しr‘を消去
(2aーr)**2=r**2+(2c)**2+2r(2c)cosθと変形。
左辺を展開して、
4(a**2)+r**2―4ar=r**2+4(c**2)+(4cr)cosθ これらを整理すると、
4(a**2)―4(c**2)+r**2=r**2+4crcosθ+4ar=r**2+4crcosθ+4ar
4(a**2―c**2)=4crcosθ+4ar=4(crcosθ+ar)、この両辺を4で割り、右辺をrで整理すると、
∴(a**2―c**2)=r(ccosθ+a)が導かれた。
よって、a**2ーc**2=b**2   c=ae、であったので、
b**2=r(aecosθ+ a)となる。

5)半直弦と楕円軌道の核心の式
ところで、半直弦ℓはθが直角のときのrなので、b**2=ra(e0+1)=ra
つまり、r=(b**2)/aである。これは半直弦といわれℓで表示され、
焦点Fに立てた高さにも相当する。
b**2=ra(ecosθ+1)を変形して、r=(b**2)/{a(ecosθ+1)}。
(b**2)/aを半直弦 ℓに置き換えて
r=(b**2)/{a(ecosθ+1)}= ℓ/(ecosθ+1)、つまり r=ℓ/(ecosθ+1)、この簡潔な表示式こそ楕円軌道の核心の式と言われる。

6)楕円の極座標の方程式(式の外観)
ここに、楕円の極座標の方程式が導かれた。すなわち、r= ℓ/(1+ecosθ)である。
eは離心率で0以上で1より小さい。e=1になると放物線を描く。放物線軌道に入ると遠い彼方に地球は太陽から離れていく。
定点(焦点)の1つが、太陽系では、不動の太陽である。2つの焦点があって楕円が描かれ、焦点が重なり1つになれば、円となる。

***ところで、{焦点を男女に擬制すれば、明治時代末に元始女性は太陽であったと宣言(青踏)されたように
古来、日本の天照大御神は女性であった。}***

ここでは、ケプラーの法則と万有引力の相互証明等は省略いたします。

学習権に関する事実証明書・ 測量士登録・理学士
H24年9月 (故)湯川秀樹氏命日に記す。(偶々)

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