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H25年11月3日文化の日

* 文化の光*

*地球という時間と空間の制約の下に人間の生活があります。約6500万年前、北米大陸ユカタン半島に大すい星が衝突。後、アジア大陸では日本列島の分離・萌芽がはじまりました。人類の生活は、はるかの昔から、月と太陽の下にあります。これが、東西ともに、暦として具体化されました。 月も地球と同様に楕円軌道を歩む天体のため、誤差が付きものです。 月が満ち欠けしながら地球を1周するのには約29.5日かかるので、1年(12か月)では354日かかります。一方、地球は太陽を1周するのに、約365日かかります。月と太陽の子である人間は、この年間差11日を19年経過すると調整できると、捉えていたのでした。このことは、メトン暦(紀元前433年アテナイの数学者メトンの発見にちなむ)として、昔から知られていたのです。中国でも章(19年=1章)の名で知られていました。月は太陰暦を生み、太陽は太陽暦を生みました。 太陽ありて月あり、月ありて太陽ありなのです。 そして、今日、世界で使用されるグレゴリオ暦(ローマ教皇グレゴリウス13世制定、日本での採用は明治5年)となりました。 中国大陸、周の時代には易の思想が起こります。月の満ち欠けから、易がうまれたとする説、更に易経が成立しました。暗夜の時には満月のときがきたると、励まし、満月のときには、その成就に感謝するとともに、自らへの戒めの光とし、人に希望を与えてきたのです。 東洋文化の花は、陰陽一致、バランスにありと人ひとは天地を仰ぎ、月を讃えたのです。その哲学は今に生きて、国旗(大韓民国)として鮮やかに国連にも翻っています。

さて、周知のことでありますが、陰隲録(著者 袁凡了)なるものが著されました。一言でいえば「お陰さま」を伝える感謝の書といえましょう。 以下は趣旨であります。

中国、明の時代、陰隲録の中の「余=学海」という、母に育てられた少年が慈雲寺で孔先生に自らの一生を占ってもらったところ、20年後、悉く的中していた。 青年となったある日、彼は南京付近の棲霞寺に参詣した時、雲谷禅師なる人と出会い、寝食を忘れて語り合った。・・・運命は生まれた時から決まっていると信じていたが、ここにきて、また1つ心の眼が開け、深い喜びが湧いてきた・・・。 更に、雲谷禅師は、「すべて人の運命は決まっているとは、よくいわれるが、誠心から祈り、特に善(良心に基づく行為)に強く生きようと努力した人と、悪に強く引かれるままに生きた者は、その善・悪の業により、初生に定まれる運命も大きく変更していくものだ」と。・・・その後、余がひたすら、多くの善への努力を重ねるにつれ、占い(予言)が、はずれるようになった。そして、初生の運命よりは、はるかに幸運に恵まれ、天寿を全うされたという話である。 この袁凡了(賜進士・明の政府高官、袁了凡とも。)は文禄・慶長の役で豊臣軍に対峙した援軍の参謀として碧蹄館の決戦(1593年2月)にも参加、日本にも知られた人であった。・・・

時に、島津家は、この16世紀の国際大戦争の犠牲者を弔うために、「高麗陣 敵味方菩提のために」と仏教の大聖地、高野山に供養の碑を建立、今に伝えている。(高野山霊宝館HP参照)

また、 仏教の説話に「3尺箸の譬え」がある。箸の使い方1つで同じ世界が地獄にも極楽にもなるという良く知られた話である。以下は趣旨である。

山海の珍味が食卓テーブルに並ぶ。が箸の長さが3尺(1m以上)もある。 極楽の住人は、長い箸でテーブルの向かい側の相手に食べさせてあげているため、簡単に食べ物が相手の口に運ばれ、楽しい食事風景を呈していた。 他方、 地獄の住人は、長い箸で我先にと他を押しのけ、食べようとするため、己の口には食べ物が届かず、山海の珍味は下に落ち散らばってしまっていた。・・・ 地獄・極楽への分かれ道、その違いはハシの用い方にあった。 相手を生かすことで、自分も生かされる世界が極楽。協調と感謝の世界がここに広がる。この世界は無量無辺である。

今日、仏教とは異なるが、鳩山家の「友愛精神」にもつながるものといえましょう。

ところで、 西洋哲学をも踏まえ、人智の究極を「如来≒大いなる自然の摂理」に委ね、明治の親鸞とも呼ばれた清澤満之(生誕150年)がいた。すべてを無限の慈悲と無限の智慧と無限の能力との実在と信じる如来に託した。己の一切の行為・言動と、それらの結果をすべて、如来は無条件(良心、前提)に引き受けて下さるという絶対他力の信の世界に、ほぼ40年の生涯の中に、師は到達された。天命に任せて人事を尽くしたのである。(時代は風雲急を告げる1903年6月)

孫弟子とも言われた林暁宇氏は清澤師の教えを実践し、あらゆる苦難をのり越え、僧侶として清貧の中にも20歳迄かとの命の限界をのり超えて、自他の心を耕しながら天寿を全うされたのである。

参考図書・文献等

・「人類福祉から見た地球と日本の未来」 高木太、文芸社刊   本書の所蔵図書館:日本福祉大学付属図書館、聖隷クリストファー大学図書館、国立国会図書館

・我が信念 ・・・清澤満之

・現代と如来信仰_清沢満之の生涯と思想_  NHK教育テレビ「こころの時代」平成11年4月11日

・人生の定理(高木太:参考主要図書・文献一覧:p154~155に同じ)

・フリー百科事典 「ウィキペディア(wikipedia)」

 

 

H25年5月2日追記(皇太子殿下・同妃殿下オランダより帰国の前日に)

* 京都学派の光*

約4年間に渡る太平洋戦時体制下、哲学者・歴史学者等の生き方は、今日でも、大きな示唆に 満ちている。

世界を相手にしてしまった軍政ベクトルを哲学・歴史のベクトルから、 軍行政を善導しようとした京都学派があった。 思想言論取締下での命がけの努力であったと思う。

なお、ベクトルとは、大きさと方向をもった量のことで、力はベクトルで表現される。 哲学文化にも力があった。ペンは剣よりも強く、あるべき世界の方向を向いていたのである。

哲学のベクトルは、アクセルではなく、軍政ベクトルに対して、垂直に作用した加速度0の ベクトルであったといえる。方向転換のハンドルとして終戦和平への矢印となった。

いわば、道々に立ち、人を導く地蔵尊の役割を果たしたのであった。

ともかく終戦の方向に導き、1億玉砕ではなく、7000万余国民の命と国土を残すことができたのである。

以前から哲学者の西田幾多郎師に教えを乞うていた高木惣吉調査課長 (少佐時は仏駐在武官、ソルボンヌ大学にて聴講、後、海軍大学教官、末期の海軍省教育局長)は、 開戦切迫の折に西田師に会った際、別人の如く「日本のこの文化の程度で、米英相手に戦が出来ると 思っているか!」と大喝され、返す言葉もなかったようだ。また、開戦翌月の正月、 国内が有頂天になっている時、親しくもあった大将、中将から「この開戦は間違っているし、 前途は楽観視できず、海軍はよほどしっかりして、もらわないと困る」(要旨)と きつく警告されたが、賽が投げられる前、その憂慮を、もっと戦争阻止に尽力して欲しかったと述べ、 これらは後世のために銘記すべきことと述べている。

元来、高木少将は、避戦、専守防衛に徹した人。

一方、大戦末の陸軍の永井軍務課長のお話によれば、「阿南惟幾大臣(自決、内閣現職初)の 思いは、最初から講和であったが、立場上それが口にできなかった(要旨)」 とのことである。軍政のトップでさえ、発言・思考の自由をなくしたことは、軍事力が 内側に向いてきた時、軍自身も、自らを止めることが出来なかったといえる。

昭和20年6月11日には、陸軍の梅津美治郎参謀総長が昭和天皇へ奏上 「・・・以後の戦闘は不可能と御承知願います」と。

一方、東京帝大にも動きがあり、南原繁(後、東京帝大総長)、高木八尺(東京帝大法学部教授 )の両法学博士が昭和20年6月15日にも海大研究室を来訪され高木少将に、 和平促進を強調、海軍の大決断を望むと。5月、6月と高木少将は、終戦策を文書化 (時局収拾対策)し、海相に提出している。更に、木戸幸一内大臣も「時局収拾の対策」を起草。

6月22日には、昭和天皇ご自身から、政府、陸海軍トップに「・・・時局の収拾も考慮すべき時ではないか・・・」と道を指し示めされた。

それから約2ヵ月経過1週間前の 、 8月14日正午近く、御前会議の終わり頃、昭和天皇は「・・・私はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。 ・・・少しでも種子がのこりさえすれば、また復興という光明も考えられる。 私は明治大帝が涙をのんで三国干渉に応じられた当時の苦衷をしのび、・・・ 将来の回復にたちなおりたいと思う。・・・」と、明快なるご聖断であった。

深夜から師団長等の痛ましい犠牲があったが、終戦録音盤はかろうじて無事、昭和20年8月15日 昭和天皇の玉音放送 《下村宏、内閣情報局総裁》により終戦。

終戦は、簡単にできたものではなかった。道筋が必要であった。その土台が京都学派であったといえる。

西田幾多郎博士とその弟子一門が京都学派と呼ばれた。

釣鐘と撞木が打ち鳴らす一体化の「音の響き」の中に共に生き、共に平和を求めた 禅僧の如き学を積んだ人たちではなかったか。

去る平成2年(1990年)7月14日に丸ノ内ホテル(9階)にて、故、鈴木成高、 京都大学名誉教授を偲ぶ催しが奥様をお招きし開催された。

生前、私も、すぐ近くで、鈴木名誉教授のお話をお聞きしたことがあるが、ユーモアのある 語り口であった。エッセイ集「世界史における現代=創文社刊=久保井理津男代表」がある。 学派ではないが、私も誘いを受け出席させていただいた。

発起人だけでも、京都大学名誉教授で哲学者の西谷啓治博士(文化功労者)、

下村寅太郎(東京教育大学名誉教授、哲学者、アッシジの聖フランシス研究)、 前川貞次郎(京都大学名誉教授、歴史学者)を含む17名の各氏であった。

出席者は、旧三高を含む京都帝大関係者が中心であったと思う。

発起人・出席者には次のような学派以外の方々もおられた。

*扇一登 氏 (周知のことであるが、大戦末に潜水艦で1万5千海里を潜航して、南仏のロリアン着。 スウエーデン訪問中、日英間の講和、和平工作の試みに努力。スウエーデン駐在武官、終戦時海軍大佐)

*馬場正夫 弁護士(早稲田大学法学部卒。結婚挙式を済ませ、南方戦地へ。南ボルネオで、 密林戦闘、マハカム河畔での抑留後、無事帰還。終戦時海軍主計大尉。)

・馬場氏によれば、「罪責のない国民の今次戦争による犠牲の代償は、日本国憲法の制定にあった。 祖国の市民社会化と憲法九条を生かす平和国家」を強く願う、制度的保障が外からあったとしてもと。

なお、馬場氏は、日本の未来を強く案じていると語られた。

*松前重義 博士(東海大学創立者、無装荷ケーブルの発明で日本の情報通信網に大いに貢献) の姿もあった。

時は流れ大半の方々も、他界されたが、なみなみならぬ御苦労の中を生きぬかれている。 松前氏は、政府高官であり、徴兵年齢も超えていたのだが、2等兵として、召集令状を受けるも、 マニラから奇跡的に生還。日本と米国の生産力の比較による戦力の調査比較等が、 その原因といわれる。召集が懲罰に使用されたとも。

偶々、隣席した私は、松前氏に教育・福祉についてお尋ねしたところ、転倒した子供を例に、 「すぐに抱き上げるよりは、自ら起き上がる姿勢まで見守るのが良い」等とのお話があった。 氏は足がつらそうであったが、(柔道家でもあった:国際柔道連盟会長も歴任) 90歳近くとは思えない程お元気であった。

星を望み、友の憂いに我は泣き、我が喜びに友は舞う(趣旨)と若き日の氏のおもかげが偲ばれる。 衆議院議員、世界連邦運動協会長でもあった。

なお、上記偲ぶ会とは異なるが、京都大学工学部出身で参議院科学技術振興対策特別委員長等を 歴任された塩出参議院議員の存在がある。4期後、行政書士に登録、入会して、 広島県行政書士会会長をされた塩出啓典氏は、広島大学と日本行政書士会連合会の 「司法研修に必要な科目等履修生にかかる覚書」の締結に尽力された。 (平成21年2月9日急逝・日本行政4月号)

参考図書・映像資料等

・NHK総合TV、NHKスペシャル「終戦なぜ早く決められなかったのか」

(H24年終戦記念日放送)

・日本人は何を考えてきたのか 第11回「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派」 (H25年1月20日NHK Eテレ東京 放送)

・馬場正夫 「バリックパパンの思い出」記 等

・日本を滅亡から救った男「海軍少将 高木惣吉」・・(製作・著作 KTT熊本県民TV)

・ウィキペディア・フリー百科事典

・政治主導と友愛の国(高木太著、元就出版社)の参考図書・文献等(P222~223)に同じ。

 

 

文書の中に文化在り

皆様こんにちは、はじめまして。

高木行政書士事務所のホームページにお越しいただきありがとうございます。

行政書士・司法書士は、明治5年、代書人として、太政官布告無号達に始まりました。日本が西洋法を継受する曙の中に、代言人(弁護士)、証書人(公証人)とともに誕生したのです。書き記すことで、事前に、権利・義務関係等を法的に安定させようとしたのです。最近でも、債務の保証は、文書によることと、保証人を明確にしました。戦前には内閣に書記官長等が、今も裁判所には書記官が置かれ、さらには、公文書法が制定されるなど、記録(電磁的記録も含め)、文書保存の重要性が認識されております。

かって、朝日新聞主筆であった緒方竹虎氏は終戦処理内閣の書記官長でありました。

さて、今日、行政書士は、主に書類の作成を通して皆様のお役に立てるサービス・情報を提供して参りたいと考えております。

今後ともよろしくお願い致します。

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